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【徳島の広場】

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え〜タウン徳島ユーザーみんなの掲示板です。
全1件見つかりました。1〜1件目を表示しています。
スレッド一覧を表示します 徳島の歴史 (35)
[となかい] 07/07/04 21:31 [529]
徳島に移り住んでから3ヶ月が経ちましたが、徳島の歴史に関わることをほとんど知らないことについ先日気が付きました。
皆さんの知っている歴史や人物などありましたらご投稿下さい
スレッド一覧を表示します 天下取ったぞ!
[ドル] 07/07/05 00:19 [530]
なななんと徳島県民が天下を取った事があるんです!
時は戦国。我らが三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が希代の梟雄松永久秀と結び、足利13代将軍義輝を殺戮し、14代将軍義栄を擁立し畿内を制圧したんです。
その後、皆さんもご存知織田信長にキャインといわされて、儚くも一瞬の天下人になっちゃいました。
三好氏没落後の阿波(徳島)は、日吉丸(後の豊臣秀吉)との「矢作川の出会い」で名高い蜂須賀小六⇒嫡子の家政/嫡孫の至鎮(よししげ)・・・と続く蜂須賀家が徳川幕藩体制崩壊まで治めるところとなりました。ジャンジャン
スレッド一覧を表示します ご投稿いただいてありがとうございます。
[となかい] 07/07/05 09:58 [531]
テーマに知識が必要なものだっただけに投稿があるか少し心配しておりました。書き込んでいただいてありがとうございます。
徳島の歴史、日本史の分野とも思いますが徳島(この時代は阿波なのでしょうか。)が天下を取ったことがあることを初めて知りました。
実人物ではないですが、金長だぬきのお話と連想されて徳島には勇ましい人物が多いような気もします。
スレッド一覧を表示します 徳島城の歴史
[となかい] 07/07/06 09:47 [532]
広い敷地に公園や博物館など富んだ施設のある徳島城跡ですが、残念ながらお城そのものは江戸時代の半ば頃になくなってしまったようです。
さぞ綺麗だっただろうなと思うと残念です。
ちなみに自分がどの場所なのか認知していないので申し訳ないのですが城跡にある鷲之門は1945年に空襲で消失したものを1992年に復元したものだそうです。
スレッド一覧を表示します 徳島城下について
[ドル] 07/07/24 23:08 [547]
徳島は、その名の通り島ばっかりです。航空写真などで俯瞰的に見ると良く分かりますが、道を走っていても橋を渡らなければ隣町にさえ行けないエリアが市内中心部には多いです。徳島城のあった城山(渭山/いざん又はいのやま)は周囲を助任川、新町川という天然の堀に囲まれた非常に要害の良い土地であり、城の南側に残る地名(幟町、鷹匠町等々)が示す通り、南に向いて城下町が形成されてゆきました(北には、現在の吉野川や低湿地が迫っている)。しかしながら城の南側には徳島のシンボル眉山(びざん)があり、徳島の城下町が大きくなれない地政学的な原因ともなっています。こんな小さな街ですけど、やっぱり徳島と言えば何事もお城が中心で徳島の城下町が城山の北側を渭北地区(いほく)、東側を渭東地区(いとう)地区と呼んでいますよね。
スレッド一覧を表示します 徳島駅の歴史
[となかい] 07/07/10 10:01 [534]
徳島に来てから残念ながらあまり乗る機会が少なく、今までに一度しか利用したことがないのですが、徳島駅から汽車に乗って遠くまで出かけてみるのが夢です。
徳島駅が初めて出来たのが1899年、約100年も前になるそうです。それから少しずつ駅の数も増えていき今の駅舎の形となったのが1992年。
長い歴史を経て今の徳島駅、徳島線があるのだなと思うとこれからもずっと末永く良い駅であってほしいと思います。
スレッド一覧を表示します 吉野川の歴史
[となかい] 07/07/11 10:10 [535]
吉野川の名前の由来は「ヨシ(吉)が河川に多く繁る川」から来ており、別名としては利根川の坂東太郎、筑後川の筑紫次郎に次いで四国三郎と呼ばれているそうです。
古くから多くの実りをもたらすと共に水害も多いことで有名で江戸時代に入ってから始まった河川開発も難航したそうです。

ざっと自分で調べてみてたのですが、吉野川についての歴史は資料も多いため、またもう一度調べ直してみたいと思っています。
スレッド一覧を表示します 吉野川の歴史2
[となかい] 07/07/12 09:55 [536]
吉野川の開発史には長い歴史と紆余曲折があったようです。
19世紀の中頃には貞光代官・原喜右衛門という方によって作られた「藤森堤」の工事額が高すぎたために切腹させられたなど、もちろん上手くいった例もたくさんあるようです。
河川開発の歴史を眺めているとそうした先人の積み重ねによって今の吉野川があるのだと感じます。
スレッド一覧を表示します 阿波踊りの歴史
[となかい] 07/07/13 09:55 [537]
阿波踊りはもともと「ぞめき踊り」と呼ばれ、今よりもずっと小規模なものだったそうですが、時の流れと共に段々と大きく、大規模なものになっていったそうです。ただ大規模化していくと同時に盆踊りに対する規制も厳しくなっていったようです。確かにどこかで収拾をつけないと規模は増大の一途を辿っていったのかもしれません。
スレッド一覧を表示します そうなんですってね
[ドル] 07/07/15 12:42 [538]
『よしこの』の一節に「阿波の殿様蜂須賀さまが、今に残せし阿波踊り」とあります。ごく最近まで藩主が阿波踊りを奨励していたと思ってましたが、徒党を組んでエネルギッシュに乱舞する民衆を見て、規制していたというのが史実らしいですね。支配者としては、当たり前すぎる恐怖に対するアクションだったんでしょうね。歴代藩主蜂須賀公は、現在の阿波踊りの盛り上がりを泉下でどんな風な想いで御覧になってるんでしょうか?『イノシシ豆喰ってホイホイホイ』
スレッド一覧を表示します 阿波踊りの歴史2
[となかい] 07/07/17 10:35 [539]
「阿波踊り」という名前は今では全国でも慣れ親しまれていますが、意外にもこの名前で呼ばれ始めたのは昭和初期からと古くはないようです。阿波踊り自体の歴史が古いだけに名前についてももっと古くから存在しているものなのかと思っていました。
余談ですが、本場徳島の阿波踊り以外にも東京高円寺でも阿波踊りが行われているようです。徳島の阿波踊りと比べどのようなものなのか気になったりもします。
スレッド一覧を表示します 阿波踊りの歴史3
[となかい] 07/08/03 10:40 [555]
もうすぐ阿波踊りが始まる時期になってきました。
浴衣を着て阿波踊りを踊る方々はどこから来ているのだろうと時々不思議に思うことがありましたが、徳島には阿波踊りを踊る「連」と呼ばれる団体があるのだそうです。
驚いたのは「有名連」という徳島の中でも有名な連も含めてその数は約1000にもなるそうです。
それだけの数の人々が街の中を踊る様は圧巻なのだろうと想像してしまいます。
スレッド一覧を表示します やっぱ阿波踊りは最高!
[ドル] 07/08/17 21:57 [562]
昨年に引き続き今年も天候に恵まれて8月12〜15日の徳島阿波踊りは、4日とも開催されました。徳島新聞さんの記事によると人出も多かったみたいで映画『眉山』効果と分析されていました。期間中メチャ暑かったですが、やっぱり阿波踊りは最高ですネ。あっという間に過ぎてしまいました。例年ですと踊りが終わった頃には、夜風が涼しく感じられ『ああ今年の夏も終わりやな』と一抹の寂しさがよぎるものなんですが・・・16日の記録的猛暑そして今日も暑かった。感傷を吹き飛ばすこの暑さは、何とかならんかいなあジャンジャン
スレッド一覧を表示します お遍路さんの歴史
[となかい] 07/07/18 09:55 [540]
江戸時代ごろ霊場やお寺巡りが庶民の間で流行し始め、その中でも四国八十八箇所を回ることをお遍路さんと呼ばれていたそうです。
全ての場所を一度に通して回ることを通し打ちと呼ばれ、約40日程かかると言われています。(観光バスや自転車を利用しても10日前後)通し打ち以外にも普通の順番とは逆に八十八箇所を回ることを逆打ちとも呼ぶそうです。
興味深かったのは閏年には逆打ちで回るとその年のご利益が倍増すると言われていることで、逆打ちで回るお遍路さんの数も例年より多いらしいです。
スレッド一覧を表示します お遍路さんの歴史2
[となかい] 07/07/19 14:02 [541]
若き日の弘法大師(空海)が修行の道として四国を渡り歩き、その後修行僧らが大師の修行の足跡を辿って遍歴の旅を始めたのがお遍路さんの原型と言われていますが、江戸時代初期から修行僧だけでなく民衆も遍歴し始めます。その中にも信仰目的の巡礼者以外にもハンセン病患者や故郷を追われた人々も四国遍路を終生行ったようです。
スレッド一覧を表示します 阿波弁の歴史
[となかい] 07/07/20 09:57 [542]
阿波弁は別名、徳島弁とも言って旧来の中国・四国方言をベースとして後に入ってきた関西方言の影響を受けて今の阿波弁になっていると言われています。
室町時代には阿波で多く収穫されていた藍の取引を行うためや、新天地を求めてなどの理由で大阪の商人が入ってきた際に、阿波の地元民が商人たちの言葉を覚えようとしてその結果、京阪のアクセントを受けたとも言われているそうです。
スレッド一覧を表示します 確かに関西風アクセントやね
[ドル] 07/07/20 20:42 [544]
確かに阿波弁は、文字にすると全然違うけんどアクセントは関西弁と同じやね。同様に「広島弁」も言葉自体はムチャクチャやけんどアクセントは、まるっきり標準語なんよ。故にドル家では、嫁はんと「雲/蜘蛛」「橋/箸/端」ぜーんぶ逆。ホンマ文字に直すと無茶苦茶なくせに一丁前に、さもコッチが合うとるみたいに言う嫁が歯がゆいわあああジャンジャン!
スレッド一覧を表示します 阿波弁の歴史2
[となかい] 07/07/24 09:58 [546]
阿波の関西化は進むようになっていましたが、更に近代になって本州と四国を結ぶ連絡橋が完成したことによってよりその傾向は強くなったようです。テレビも京阪神地区の地上波をほとんど受信できることでそのことも影響の強さと一つとなっているようです。
スレッド一覧を表示します 金長だぬきの歴史
[となかい] 07/07/25 14:33 [548]
歴史、ではなく民話になりますが金長だぬきは江戸時代末期に阿波で起きたという狸たちの大合戦のお話です。阿波の狸合戦又は金長狸合戦ともいいます。
お話の内容を簡単に見ていくと、阿波の日開野(現・小松島市)というところに金長という名前の狸が大木の中に住んでいました。その金長を大勢の者が焙りだそうとしていたところを染物屋の茂右衛門が哀れに思いその者達に金を与えて金長を救いました。
金長は恩義を感じ、茂右衛門に守り神として彼の店の反映に貢献しました。

一度に書くには長くなってしまうのでこの続きをもう一度書き込みしたいと思います。
スレッド一覧を表示します 金長狸の歴史
[となかい] 07/07/26 10:11 [549]
茂右衛門の店の守り神として貢献し何年かが経った頃、金長は狸のとしての位を高めるため六右衛門という化け狸の元に弟子入りしました。
六右衛門は四国の狸の頭領であったけれど、人を化かして者を奪う狸でもありました。厳しい修行の最中、六右衛門は金長の才覚を見出し自分の娘と結婚し跡を継ぐよう金長に勧めましたが茂右衛門の恩義からこれを断り、逆に六右衛門の悪事を非難しました。
怒った六右衛門は60匹の狸の軍勢を引き連れ金長とその家来たちを襲いました。かろうじて逃げ延びた金長は仇討ちのために仲間の狸を呼び集め、六右衛門に戦いを挑みました。
3日3晩続いた戦いは金長が勝利を治め六右衛門は息絶えました。しかし金長の負った傷も深く、力を振り絞って大恩ある茂右衛門の元へと向かい礼を述べた後、力尽きました。
この生き様に心打たれた茂右衛門は金長を正一位金長大明神として祀ったのです。

長くなってしまいましたがこれが金長だぬきのお話になります。現在でも金長は小松島市の金長神社に祭られて人々の間で親しまれているようです。
スレッド一覧を表示します 新町川の歴史
[となかい] 07/07/27 10:03 [550]
吉野川には多くの資料が見受けられたのですが、新町川ではあまり資料が見られないため深く調べることが出来ませんでした。
幾つか見つけたものの中では、江戸時代には阿波の藍を乗せた船の往来で賑わいを見せていたようです。
昭和初期までは泳ぐ人でいっぱいになるような川であったらしいのですが、昭和中期になると汚染され悪臭も出るようになりました。NPO法人の方々の活動などにより近年は大分綺麗になったようです。
スレッド一覧を表示します ほんまにね
[ドル] 07/07/31 00:36 [551]
私の実家は下助任町にありますが、裏を新町川が流れています。新町川は両国橋、かちどき橋をくぐって徳島港より紀伊水道に流れ込んでいるのは皆さん良くご存知ですが、反対側は三ツ合橋の下で大きく右カーブを描いて吉野橋をくぐり、旧吉野川橋西側の水門で吉野川と繋がっています。
子供の頃(30年ほど前)はボラを釣って遊んでいましたが、とにかくきちゃない川でありまして、釣った魚はとても食べれる気がしませんでした。大勢の心ある人々の努力によって随分とキレイな川になったと思います。えっ!じゃあ泳げるかって?それはまだ勘弁して頂きたいです。ジャンジャン!
スレッド一覧を表示します 徳島の人物「モラエス」
[となかい] 07/08/01 15:34 [553]
名前からも分かると思いますが日本の方ではありません。徳島では有名な人物のようなのですがこの街に移り住むようになってから初めて知りました。元々はポルトガルの外交官でしたが、1899年に日本で初めてのポルトガル領事館が開設されると副領事として赴任し、後には総領事にまでなって1913年まで勤めました。
神戸に在籍中に知り合った芸者のおヨネと共に暮らしていましたが1912年に彼女が亡くなると彼女の故郷である徳島に移住しました。
おヨネの姪であるコハルとも暮らしましたが彼女にも先立たれてしまったようです。また徳島での暮らしは決して楽なものではなく、スパイ容疑や蔑まれたこともありました。
昭和初期には彼の書いた著書が時代の風潮もあって日本賛美として取り上げられるようになりました。

ずっと前から気になっていた彼の書いた本を一度、読んでみたいと思っています。
スレッド一覧を表示します 四国三郎橋の歴史
[となかい] 07/08/02 10:04 [554]
吉野川に架かる新旧の吉野川橋と同じぐらい綺麗な橋です。
1988年に建設事業が始まり、およそ10年をかけて1998年に開通しました。開通式の際には約300人の方が四国三郎橋を渡ったそうです。
新旧の吉野川橋には歩いて渡ったことがあるのですが、四国三郎橋のことはつい先日初めて知ったのでまた、天気の良いお休みの日に散歩に行ってみたいと思います。
スレッド一覧を表示します 「徳島市」の歴史
[となかい] 07/08/09 10:07 [559]
徳島市の歴史と言ってもその範囲がても広くなってしまうので、短い文章でまとめることは出来ないので「徳島市」が誕生した頃の出来事に絞ってみようと思います。
徳島市が出来たのは1871年に廃藩置県によって県庁所在地になり、1889年に市制施行がされたのが始まりのようです。
当時の人口は驚いたことに日本で10番目の多さで人の賑わいも盛んだったようです。
スレッド一覧を表示します 「徳島市」の歴史2
[となかい] 07/08/10 11:40 [560]
大正・昭和のはじめの徳島は吉野川橋の開通や市営バスの創業など街の開発が大きく進んでいたようです。
ですが様々な都市開発が進む中で1945年に徳島大空襲で爆撃機の襲撃を受けて市の約6割が焼失してしまいます。
第2次世界大戦後は1946年に市の復興事業計画が始まり再び都市開発が始まります。
その10年後には市立動物園や眉山ロープウェイなどが作られ、今の徳島の基礎となる形が出来上がっていったようです。
スレッド一覧を表示します 眉山の歴史
[となかい] 07/08/20 14:14 [564]
徳島の地元の方であれば知らない人はいないぐらい慣れ親しまれ、最近では映画の題名にもなった山です。
眉山という名前の由来は、どの角度から見ても山の形が眉のように見えることから付けられたのだそうです。
頂上から見る景色は徳島市を一望することが出来、一度自分も登ってみてみたことがあるのですがとても素晴らしい景色でした。
以前はこの頂上に焼餅のお店などがあったそうなのですが、今はふもとの阿波踊り会館に移ってしまったそうです。
賑わいのある眉山の頂上も少し見てみたい気がします。
スレッド一覧を表示します 眉山の歴史「ロープウェイ」
[となかい] 07/08/22 09:54 [566]
行こうと思えばすぐに行ける距離に住んでいるのですが、実はまだ一度も眉山のロープウェイに乗ったことがありません。
このロープウェイですが、今運行されているものは一度新しくリニューアルされたものなのだそうです。
最初に作られたロープウェイは1957年。今から30年以上も前のことになるそうです。今のロープウェイも素敵ですが、昔のものも一度見てみたかった気がします。
スレッド一覧を表示します 「丈六寺」の歴史
[となかい] 07/09/12 10:25 [588]
寺の歴史は650年に関東地方から辿りついた尼僧がこの場所に庵を構えたことが始まりだそうです。
室町中期(1480年頃)に一度整備されこの時、曹洞宗としてのお寺になったようです。
丈六の名前の由来となっているのは観音堂に安置されている聖観世音菩薩坐像が立ち上がれば一丈六尺(4.8m)になることから来ているそうです。
丈六寺で有名なのが寺内の天井板として使われている血のついた「血天井伝説」です。
戦国時代、阿波国に攻め込んだ長宗我部元親はこの地を治める新開入道道善により攻めあぐねていました。そこで元親は道善に和議を申し出て丈六寺に呼び出し宴を開いたそうです。
その宴会の帰り際、隠れていた元親の家臣によって襲撃され道善は命を落としたそうです。
その時についた血の板が天井板として使われ今も残っているのが丈六寺の「血の天井板」です。

そんな歴史が残る丈六寺ですが、お寺自体はとても綺麗な場所でどんなにいても飽きない美しいお寺です。
一度丈六寺にも足を運んでいるのですが、この天井を見るのをすっかり忘れてしまっていたのでまた機会のあるときに見に行ってみたいと思っています。
スレッド一覧を表示します 「徳島ラーメン」の歴史
[となかい] 07/09/13 10:37 [589]
ラーメンに関してはあまり詳しい知識を持っていないので自分で調べた文面を引用するだけになってしまいますが、面白い歴史を見つけたので取り上げてみました。
戦後まもなく小松島市で関西でラーメン作りを覚えた「二木さんと」という方が徳島(小松島市)で屋台を開いたのがそのルーツと言われています。
その後、徳島市内にもそのラーメンが伝わっていき昭和30年代には数多くのラーメン屋台が登場する第一期の黄金期を迎えました。このときのスープの色は豚骨の白色スープだったそうです。
昭和40年になるとこげ茶色のスープが登場します。肉もチャーシューではなく豚バラ肉の甘辛煮付けになりました。
今では徳島県内に徳島ラーメン専門店は100件以上にもなるといいます。

また面白かったのが徳島ラーメンが全国的に有名になっていった経緯です。徳島ラーメンの専門店「いのたに」さんが平成11年に新横浜ラーメン博物館に期間限定出店したことがキッカケになったそうです。
こげ茶色のスープに生卵を落として食べるラーメンはインパクトがあり全国のマスコミから注目を集めたそうです。
徳島ではそれを村おこしとして県の活性化の材料にTVや地元誌で大きく取り上げたことも影響があったようです。

徳島ラーメンは数える程しか食べたことがないですが、そのおいしさはどんな人にも広く受け入れられると思います。
スレッド一覧を表示します 「板東俘虜収容所」の歴史
[となかい] 07/09/14 10:26 [590]
俘虜収容所というといいイメージがないように聞こえてしまいますが、この板東俘虜収容所は収容された捕虜に対して人道的で友好的な処置を行ったことで知られています。

第一次世界大戦時にドイツの植民地であった青島(元は中国の都市)を日本が占領下に置いたとき、日本軍隊の捕虜になったドイツ兵4715名の内、約1000名を収容したのが当時の徳島県板野郡に開かれた板東俘虜収容所です。所長である松江豊寿中佐は捕虜の自主活動を奨励し、このときの捕虜に対しての公正な対応が日本でもっとも有名な俘虜収容所として知られることとなったようです。

現在収容所はドイツ村公園になっており当時の様子を知ることができるそうです。
2006年にはこのエピソードが「バルトの楽園」として映画化もしました。丁度、徳島に旅行として来ていたときに大きくポスターが貼られていたのを見たのを覚えています。
その時は知識がなかったので内容を把握できなかったのですが今こうして調べてみると興味深いとよく思います。
スレッド一覧を表示します 徳島伝統の歴史「木頭杉一本乗り」
[となかい] 07/09/28 10:27 [599]
徳島の歴史に関する話題を調べていると木頭杉一本乗りという伝統技能があることを知りました。
杉の丸太に乗って竹ざお一本で川を下るらしいのですが、川に浮かべた不安定な丸太の上に乗りながら流れを制御するのは竹竿一本というのは本当にすごいと思います。
元々は道路が整備されていなかった時代に切り出した丸太を川を使って下流まで運ぶための手段だったらしいのですが、その発想と方法自体に驚かされてしまいます。
スレッド一覧を表示します 「阿波水軍」の歴史
[となかい] 07/10/19 10:38 [613]
徳島の歴史を調べていて阿波の水軍に関して面白い歴史を見つけました。
徳島県の北部では海に面した部分が広い土地柄のため昔から海賊が横行していたそうです。強い軍事力を持った彼らはやがて大名たちの配下となって水軍として活躍するようになります。1585年には蜂須賀家政氏が土地を治めるようになり、水軍の森一族を従えて勢力を伸ばします。
徳川支配が始まって江戸時代に入ると水軍の色は薄れて輸送船団として働くようになったそうです。

初めは海賊だった彼らが最後は藩主の下について輸送船団となる様はとても興味深かった歴史だったので投稿してみました。
スレッド一覧を表示します 阿波の名前の歴史
[となかい] 07/10/26 10:31 [618]
徳島の歴史を調べていて「阿波」という名前に関して面白い内容を発見しました。
「阿波」という名前はもともと「粟(あわ)」からきているのだそうで昔、阿波国は粟国と呼ばれていたそうです。西暦700年頃に元明天皇の命によって漢字2文字で国の名前を表現するようになり「粟」から「阿波」へ変わったのだそうです。
この「阿波」の名前についても調べてみたのですがすぐに資料が見つからず分からなかったのが残念です。
スレッド一覧を表示します 徳島の歴史「庚午事変」
[となかい] 07/11/08 10:56 [626]
庚午事変とは1870年に当時淡路島にあった徳島藩淡路州(稲田家)本城に藩本州(蜂須賀家)の武士が襲った事件です。
幕末の頃、幕府支持の本州とは対照的な尊王派の稲田家が淡路を独立させて稲田藩の設立を目指すようになりました。
これを怒った本藩の過激派の武士が稲田家の本城を襲ったのが庚午事変と言われています。
本藩が直接に過激派の武士を煽っていたものかどうかは定かでなかったものの、意図的に過激派武士に対する措置を怠った形跡があったため政府は本藩側の首謀者と見られる武士10人余りを処分しました。

この事件がなければ淡路島は今も徳島であった可能性が高いと言われているそうです。
兵庫県の方には申し訳ないのですがそんな徳島も一度見てみたいと僕は思ってしまいました。
スレッド一覧を表示します 「竹ちくわ」の歴史
[となかい] 08/01/23 21:08 [674]
徳島の方は周知の事実のかもしれませんが、竹ちくわの歴史についてふと興味が沸いたので簡単に調べてみました。
その昔、源義経の軍勢が小松島に上陸した際に、小松島の漁師たちが魚のすり身を竹に巻きつけて焼いた香りに惹かれて、その一つを食べてみたところ味・香り共に賞賛されたのだそうです。
確かにちくわの焼いた香りは何とも言えずそそられるものがあるのだろうと思ってしまいました。
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